地域の歴史


 小敷田、池上地区は 小敷田遺跡弥生時代中期にさかのぼれる土地である。
条里制遺構


水田風景

 池上を望む田植え時期の水田風景


  池守・池上遺跡

 池守・池上遺跡(いけもり・いけがみ)は、行田市上池守と熊谷市池上とにまたがる弥生時代から平安時代にかけての遺跡をさす。

 池守遺跡の存在は以前から知られていたが、1978年に道路建設に伴う発掘調査の際、その西側にも遺跡が広がっていることが確認され、池上遺跡と命名された。

 3年後に池上遺跡の発掘を行った際に遺跡が南側にも広がっていることが確認された(区域は「池上西遺跡」とも)。

 弥生時代中期のものとみられる三条の環濠集落に竪穴式住居11棟と貯蔵倉庫とみられる土坑などが発掘され、関東地方の環濠集落の中でも古い時代に属すると考えられている。

 また、その上層から古墳時代から平安時代の遺構も確認されている。


 ところでこの当時、自然災害や田租の負担などによって春先に田植えのための種籾が不足した農民たちは、そのような危機をどのようにして乗り切ったのだろうか。

 このことを教えてくれるのが、昭和五十八年(一九八三)七月から同六十年三月まで、国道一七号線のバイパス建設工事に先立って発掘調査が実施された行田市小敷田(こしきだ)遺跡出土の一枚の木簡である。

 木簡とは、さまざまな内容が文字で記された小さな木の板であり、紙が貴重品であったこの当時、中央や地方の役所の事務などは、この木簡を用いて行われていたのである。


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 小敷田遺跡から出土した木簡は、一緒に出土した土器の年代から、ちょうど西暦七〇〇年前後、すなわち八世紀前後のものであることが判明した。

 小敷田遺跡は、次節で詳しく述べるように武蔵国埼玉郡の郡役所(郡衙)跡と思われる遺跡であるが、この木簡には、表に「九月七日五百廿六□[次カ]四百」、裏に「卅六次四百八束并千三百七十小稲二千五十五束」という文字が記されていた。


 これは、「九月七日」という月日、そして五二六束、四三六束、四〇八束という三つの稲束量とその総計に当たる一三七〇束という稲束量の記載であり、続く「小稲」二〇五五束という稲束量は、一三七〇束のちょうど一・五倍(五割増)に当たる稲束量である。

 詳細な検討の結果、このような記載内容は、この木簡が、この当時行われていたとされる利息付きの稲の貸借制度である「出挙」を記録したものであることが判明したのである。


 出挙の制度はすでに古墳時代ごろから存在していたと思われ、もともとは各地の在地首長層が困窮した農民たちに春と夏の二回、管理していた稲を貸し出すという相互扶助的な慣行であったものが、律令国家の成立以後も五割または十割という利率で公的な制度「公出挙(くすいこ)」として継続していたものと考えられている。

 ただし、公出挙では相互扶助的な役割は薄れ、むしろその利息の稲を先の田租と共に各国の「正税」として、各郡衙に設けられていた正倉に蓄えて、各国の地方行政の経費や中央への進上物の調達費用に充てていたようであり、これを維持していくために、農民たちに半ば強制的な稲の貸し出しが行われていたようである。

 これまで、こうした制度については、数少ない文献資史料からその存在をうかがい知るだけであったが、


 小敷田遺跡の木簡は、利息五割の出挙が実際に行われていたことを示す初めての物証として重要な発見であった。


 残念ながら、小敷田遺跡すなわちかつての埼玉郡の郡役所(郡衙)から出挙を受けていたのが、

 埼玉郡内のどこに暮らしていた農民たちであったのかは明らかではないが、地域に暮らしていた人々も、きっとこうした制度の下で暮らしていたのであろう。


 古代(律令時代)の武蔵国は、現在の埼玉県と東京都のほぼ全域と、それに神奈川県の一部を含んだ地域で、21の郡で構成されていた。

その国府が置かれたのは、東京都府中市の南端を、西から東へと流れる多摩川の氾濫域から、一二段崖線を上がった左岸北側の台地上に位置した場所である。

 771年まで武蔵国は東海道ではなく東山道に所属していたので、都から武蔵国府へ向かう駅路は、上野国の新田郡衙辺りから、枝分かれして南へと通っていた。

 直線状に並ぶ6つの郡衙は、その駅路の東方を若干の角度を持ちながら、ほぼ平行する様に南北に位置している。


 北から順にあげて行くと、上野国邑楽郡衙(推定地)、埼玉郡衙関連遺跡か、大里郡衙(推定地)、横見郡衙(推定地)、比企郡衙(推定地)、入間郡衙の6ヵ所である。

 この中で発掘調査が行われたのは、埼玉郡衙関連と思われる北島遺跡とその南東の池上遺跡や小敷田遺跡、その他には入間郡衙の霞ヶ関遺跡だけに留まっている。

 残りは地名などから推測されている場所であり、「古氷(ふるごおり)」・「久下(くげ)」・「御所堀(ごしょぼり)」・「古凍(ふるごおり)」といった地名が残る場所である。


 これらがほぼ直線上に並ぶので、その中心を決めてラインを地図に落としてみた所、ちょうど金山の山頂を通っていた。

 それで測量のポイントがここの金山城本丸跡(中世)であることが分かった。

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 後は、ここを目指して測量して行ったのか、あるいはその逆にここから測量して行ったかなのだが、金山が標高200m程度の山であることを考えた場合、南に数十km離れた入間郡衙からこの山頂を目指すことは途中に丘陵もあり考え難く、本丸跡から真南より若干東へ振った角度を付けて、測量して行ったと考える方が自然であると思われた。


 個々の概要は次の通り。


 邑楽郡衙…群馬県大泉町古氷が推定地。

 「郡」や「古氷」は「こおり」、「ふるごおり」と読んで、郡衙の推定地になっている所が多い。

 ここより南に2km位行った利根川の自然堤防上に「仙石専光寺付近遺跡」があり、土地区画整理事業の時に道路部分の発掘調査をした所、多くの掘立柱建物跡が見つかると同時に、「上厨」・「邑」・「南院」といった墨書土器が出土している。


 埼玉郡衙関連遺跡か…埼玉県熊谷市上川上の北島遺跡では、竪穴式の住居が116軒、掘立柱の建物が62棟でている。他に道路状遺構が2例、役人の付けるベルトの金具、緑釉陶器、灰釉陶器が出土した。

 行田市池上の池上遺跡では、掘立柱の建物が規則的に並んでいた跡や墨書土器、緑釉陶器、灰釉陶器など。

 行田市小敷田の小敷田遺跡からは8世紀初頭の木簡が10点出た。その内の1点は「出挙(すいこ)」に関する木簡。

 諏訪木遺跡は熊谷市上之にあり、竪穴式の住居が22軒、掘立柱の建物は27棟出土した。それらと一緒に、緑釉陶器、灰釉陶器、役人のベルトに付いている金具、ベルトの石飾りなどが見付かっている。

 大里郡衙…熊谷市久下が推定地。「和名抄」の中の大里郡に「郡家(ぐうけ)郷」と出てくるが、これが「吾妻鏡」(鎌倉時代)の「久下(くげ)郷」に変化したと考えられている。

 久下には古城(ふるしろ)の小字があり、ここが「風土記稿」に久下直光城跡と記されている久下氏の館跡と推測されている。

 横見郡衙…埼玉県吉見町に「御所掘」という地名の所があり、吉見丘陵の中の方にある。平坦な場所で周囲に堀や土塁が残っていたと言われ、「吉見町史」に郡衙想定地とある。

 比企郡衙…「古氷(古凍・古郡とも記す)」の地名があり、東松山台地の南東の端付近が推定地。

 入間郡衙…川越市の上戸新町にある。大型掘立柱の建物跡(3間×8間)や区画溝、塀か柵の柱穴列、「入厨」の墨書土器が見付かっている。時期は平安時代の初期頃。


  (参考文献・「日本古代の郡衙遺跡」「日本古代道路事典」など)


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  埼玉県の地形

 埼玉県の地形は八王子構造線によって「秩父山地」と「埼玉平野」に分けられます。

 埼玉平野は八王子構造線沿いに9つの丘陵と、丘陵より一段低く10の台地群、平野中央に大宮台地、平野東部に千葉県から続く宝珠花・金杉川低地・中川低地・加須低地・妻沼低地が広がっています


  沖積低地と氾濫原

 荒川低地や中川低地は、洪積世末(約2万年前)の頃、荒川や利根川、渡良瀬川や思川などの大河川が開析した谷に、沖積世(約1万年前)になって東京湾(奥東京湾)が進入し、そのときの堆積物とその後の東京湾後退とともに利根川や荒川が運んだ土砂で作られました。

 このような低地は「沖積低地」と呼ばれ、河川の流送土砂が積もってできた自然堤防と、自然堤防周囲の後背湿地で構成される河川の氾濫原です。


  河川改修の歴史

 沖積低地、特に県東部の中川低地は、かつて、利根川や渡良瀬川、思川、荒川(現綾瀬川・元荒川)が乱流する広大な沼沢地でした。

 鎌倉時代には、この一体の水を治めて水田に変えようとしましたが、大河川まではなかなか手がつけられなかったようです。

 江戸時代の初期、これらの蛇行している大河川の河道をまっすぐにし、河幅を拡げ、堤防を築き、乱流地帯を美田に変え、舟運路網を確立するための一大土木事業が行われました。

 60年の歳月をかけて利根川の水が銚子に導かれたのは、1654(承応3)年でした。

 1629(寛永6)年には、荒川の水を和田吉野川に落とし、入間川筋を流下させ、さらに新田開発のための溜井の造成、用水の疎通がつづきました。

 このようにして茫漠と葦原の広がる池沼地帯は黄金色に輝く穀倉地帯に生まれ変りました。


  生まれ変わった穀倉地帯

 1590(天正18)年

 徳川家康、江戸へ入城。城及び城下町建設と平行して、関東一円の大土木事業を伊奈備前守忠次に命じる。

 1594(文禄3)年

 忍城主松平忠吉家臣小笠原三郎左衛門による会の川を締め切り、浅間川筋が利根川本流になる。


  (利根川東遷事業始まる)

 1621(元和7)年

 伊奈忠次次男半十郎忠治、利根川を常陸川筋に分流するため新川通及び赤堀川の開削に着手。

 1654年通水し、利根川筋が生まれる。(利根川東遷事業完了)

 1629(寛永6)年

 忠治、荒川の水を和田吉野川から入間川筋に付け替える。

 1727(享保12)年

 井沢弥惣兵為永、見沼溜井の干拓と利根川から導水する代用水路を開削。

 1742(寛保2)年<>

 利根川・荒川水系、江戸時代最大級といわれる大洪水。利根川・荒川の各所で破堤。

 1846(弘化3)年

 利根川水系、江戸時代後期の大洪水。

 1859(安政6)年

 荒川水系、1742年に次ぐ大洪水。各所で破堤。

 1910(明治43)年

 江戸川・荒川水系、明治時代最大の大洪水。

 1911(明治44)年

 荒川(隅田川)の北側に放水路(現荒川)の開削着手。1930年完成。

 明治43年の大洪水

 1910(明治43)年、埼玉県の全面積の24%が浸水し、東京下町が破滅的な被害を受ける大水害を経験しました。


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  様々な文献研究より  成田氏の歴史

 竪三つ引両 (藤原北家流?/武蔵七党か) ・『関東幕注文』には、月に三つ引両とある。

 成田氏は、一説に藤原道長の後裔式部大夫任隆が武蔵国の国司として幡羅郡に住み、任隆の子助広が成田太郎を称したのが始まりという。しかし、そのようにいわれるだけで史料的な裏付けがあるわけではなく、厳密なことはわかっていない。

 成田氏は北武蔵の一隅の小さな在地領主から次第に成長していったことは間違いなく、藤原氏に連なる系譜は後世の付会の説というべきであろう。

 ちなみに、武蔵七党横山党系図によれば、横山資孝の子の成任が成田を称したとある。そして、「成田系図」には助高を成田大夫とし、その子に成田太郎助広、別府氏の祖である別府二郎行隆、奈良氏の祖である奈良三郎高長、玉井氏の祖である玉井四郎助実の四人が記されている。

 この四人は「武蔵七党系図」にみえる資孝の子の成田成任・箱田三郎・奈良四郎・玉井資遠に該当するものと思われるが、これも相違があって断定することは困難である。しかし、在地武士と思われる成田氏は、武蔵七党にみえる成田氏の子孫と考えるほうが自然なようだ。


 いずれにしても、系図上の人物ではっきりしてくるのは助隆からで、助隆がはじめて成田氏を名乗っており、助隆が成田氏の初代として考えられている。この助隆から親泰までは居城を上之に構えており、親泰が文明年間(1469~87)に忍氏、児玉氏を滅ぼし、忍城に本拠を移したといわれる。

 助隆の孫助忠は源義経に従って一の谷の合戦で名を挙げ、助綱は奥州征伐に従って功があり陸奥国鹿角郡内で勲功の地を与えられた。

 成田氏は鎌倉幕府創業期、御家人として活躍し、「承久の乱」にも幕府方として参加した。乱後、和泉・出雲両国内で新補地頭に補任されたことが『出雲大社文書』『田代文書』などから知られる。

 元弘の変(1333)で鎌倉幕府が滅亡し建武新政が成立したが、それも新政府の失政が原因で崩壊したのち、成田氏の嫡流は本領成田を没収され庶流に預けられた。

 これは、新政崩壊後の南北朝の内乱期に際して、嫡流成田氏が南朝方に属していた結果と思われる。


  成田氏の発展

 十五世紀の初めに活躍した家時は、幼児より怜悧、長ずるにおよんで智勇父祖に越え、武士を愛し民を憐れみ政道に私なく文武に秀で、近邑おおいに靡き左京亮に任ぜられたといわれる人物であった。

 応永二十三年(1416)「上杉禅秀の乱」における相模川の合戦には別府・奈良・玉井の一族とともに上杉憲顕の嫡子定顕に属し戦功をたて、鎌倉に帰った足利持氏から恩賞を賜った。


 これを契機として成田氏は山内上杉氏と結ぶようになり、成田氏は勃興のきかっけをつかみ、家時は成田氏の勢力拡大の端緒を築いた。

 家時が成田氏中興の祖と呼ばれるよう所以である。家時の嫡子は早世したようで次男資員が家督を継承したが、資員は不肖の息子であったようで鎌倉への出仕も怠りがちであった。

 資員は三十二歳で没したため嫡子顕泰がわずか八歳で家督を継承、幼い顕泰は老臣の補佐を得て一角の武将に成長した。


 顕泰のとき関東公方持氏と関東管領上杉氏が対立した「永享の乱」が起り、幕府の介入によって敗れた持氏は自害して鎌倉府は滅亡した。

 その後、持氏の遺児春王丸と安王丸が結城氏朝に擁立されて結城城に立て籠ったが、上杉清方を大将とする幕府軍によって制圧された。

 この一連の関東の戦乱に際して、顕泰は管領上杉憲実に従って軍功をたて、憲実のあとを受けた管領上杉清方の推挙で下総守を称した。

 その後、持氏の子成氏が関東公方になると、成氏は父や兄に味方して没落した結城氏らを取り立てたため、上杉氏と対立するようになり、ついに管領上杉憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が勃発した。


 以後、関東は公方方と上杉方に分かれて戦乱に明け暮れる時代となった。この乱に際して、成田氏の同族別符氏は公方に属していたようだが、武蔵国長井庄を望んだとき成氏がこれを近臣の結城氏に与えたために成氏方から転じて山内上杉氏に属している。

 公方と管領の争いは繰り返され、太田道灌に攻められた成氏の被官である簗田成助は成田氏の陣から和を請うている。

 顕泰は上杉方に属して活躍し、掘越公方となった足利政知からも賞詞を賜っている。その後、長尾景春が家督相続をめぐる主家上杉氏の処置への不満から叛乱を起こし、成氏と結び長井庄内の要害に立て籠った。


 これに対して太田道灌が顕泰を応援している。顕泰は寛正の争乱に際して古河に備えるため行田に要害を築き、一方で仏門に帰依して寺社に保護を加え、文明十二年(1480)に家督を嫡男の親泰に譲って隠居した。


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  忍城を築く

 家督を継いだ親泰の時代は、享徳の乱が終熄したものの山内上杉顕定と扇谷上杉定正が対立をした時代で、親泰は山内上杉氏に属して活動した。

 両上杉氏の抗争は「長享の乱」と呼ばれ、「享徳の乱」「長尾景春の乱」に活躍した扇谷上杉氏の家宰太田道灌の謀殺がきっかけとなった。


 扇谷上杉氏は道灌の存在によって山内上杉氏を凌駕するいきおいを見せ、それを危惧した山内上杉顕定は扇谷定正に讒言して道灌を殺害させた。

 それが引き金となって「長享の乱(1487)」が起り、関東はまたもや戦乱のなかに叩き込まれたのである。

 この乱に際して親泰は山内顕定の麾下の将として活躍し、その武名を近在に響かせ、中務大輔・下総守に補せられた。


 延徳元年(1489)、親泰は忍氏の館を襲って忍氏を滅ぼし、さらに児玉重行を攻め滅ぼした。

 忍氏は『吾妻鏡』にも記されているほどの古い家で、児玉党の一族といわれている。

 忍氏と成田氏とは源頼朝の旗揚げのときはともに出陣した間柄であったといい、成田氏は時流にのって勢力を拡大したが、忍氏は昔ながらの武士のままであった。

 とはいえ、忍氏は道灌の存命中には道灌と姻戚関係を結び、成田氏とそれなりに相応する地位にあった。

 しかし、道灌没後は両家の確執が激化し、ついに武力抗争に至った。

 親泰はこれを好機として、上杉顕定に訴えて、承諾をえると一気に忍氏を滅ぼしたのである。

 さらに、扇谷上杉氏に加担する児玉重行をも攻め滅ぼし、児玉党より忍の地を奪い取るに至ったのである。


 そして、翌年から忍城の築城に着手し、翌年に竣工した。

 忍城が築かれた当時の忍は「水田と湿潤地帯が錯綜し、其の間に小丘があった。そこに諏訪曲輪、本丸、二の丸、荒井、井戸曲輪などを建設、湿潤地帯と深田地帯とを巧みに利用し小丘の周辺に沼地を作り、土を以って土塁を幾重にも築いた」一大城郭としたのである。

 『成田記』には「忍の城は太田道灌の縄張り共伝ふ」とあるが、道灌は忍城築城以前に死去しており、道灌の縄張りはありえいことであった。

 とはいえ、道灌の築城術に学んで築かれた城であったようだ。

 永正六年(1508)、連歌師宗長が成田親泰の館を訪れ、そのときに滞在した忍城の景観を、かれの紀行文『東路のつと』に「水郷也。

 館のめぐり四方沼水、幾重ともなく葦の霜がれ、廿余町四方へかけて、水鳥おほく見えわたる」と描き残している。


 永正七年、上杉氏の被官上田政盛が北条早雲に内応して管領上杉憲房に叛した。

 憲房は政盛が籠る権現山を攻め叛乱を鎮圧したが、親泰は嫡男長泰および藤田虎寿丸らとともにその寄せ手に参陣し戦功をたてた。

 このころ、小田原を本拠とした後北条氏が勢力を拡大しつつあり、関東は本格的な戦国時代に移行していった。そして、居城を忍に構えたこの親泰のころからが戦国大名成田氏としての歴史にあたっている。


 その後、古河公方家に内紛が起り、政氏と高基が不和となったとき、山内氏もその影響を受けた。

 すなわち、公方家から上杉氏に養子に入った顕実ともうひとりの養子憲房とが対立し、親泰は政氏方の顕実に従って所領を没収され、憲房の執事長尾景長はそれを横瀬景繁に与えた。


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  関東の戦乱

 大永四年(1524)、親泰が死去したあとを受けて長泰が成田氏の当主となった。

天文十年(1541)、長泰は深谷城主上杉憲賢、下野の佐野氏、上野の那波・長野氏らと金山城主横瀬成繁を攻めた。

 背景は不明だが、おそらく後北条氏と結ぼうとする横瀬氏の動きに対して、関東管領上杉憲政の命で出陣したものであろう。

 加えて、先に没収された所領が横瀬氏に与えられたことに対する報復もあったと考えられる。


 長泰の史料上における初見は、天文二年(1533)二月、北条氏綱が鶴岡八幡宮造営に際しての勧請に応じた領主の一人としてである。

 氏綱は鎌倉を掌握し、鶴岡八幡宮の再興造営を通して関東の領主たちに対する支配を強化しようとしたのである。


 天文二十五年、上州館林の青柳城主赤井勝元が忍城攻略を企て、長泰は城を出て小簑郷に布陣、荒木邑の河辺で合戦して赤井勢を撃退した。

 このころ、後北条氏は早雲のあとを継いだ氏綱の代で、さらに台頭は著しいものがあり、後北条氏の存在は関東の政治の流れに大きな影響を与えようとしていた。

 そして、氏綱の子氏康の代になると、両上杉氏や古河公方との対立を引き起こすようになった。


 その最大の事件となったのが、天文十四~十五年(1545~46)の「河越合戦」で、氏康の会心の勝利に終わった。

 敗れた両上杉氏・古河公方家は没落し、上杉方の有力な国人であった大石・藤田氏らは氏康に降った。河越合戦は関東の政治地図を塗り替える画期となる戦いとなったのである。

 このころ、成田長泰は北条氏康に味方していたようだが、その関係は互いに起請文を取り交わし、長泰が氏康の指揮下に入った程度のものであり、未だ不安定な服属関係であった。

 合戦後も平井城に余喘を保っていた管領上杉憲政に対し、天文二十年、北条氏康は攻撃をしかけた。

 敗れた憲政は、ついに越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って関東から落去していった。


  長尾景虎の越山

 上杉憲政を庇護した景虎はその要請を入れて、永禄三年(1560)秋、憲政を擁して関東へ出陣した。

 このとき、それまで北条氏康に従っていた成田長泰ら関東の諸将は景虎のもとへ参陣し翌四年の小田原城攻撃に加わった。

 このとき、謙信は上杉陣営に来属してきた関東の武士の氏名と陣幕の紋を書き上げた『関東幕注文』を作成した。

 そのなかに、武州衆の統率者として成田下総守すなわち長泰と一族、配下の幕紋が記録されている。


 それによれば、成田氏は「武州之衆」を率いる大名として把握され、成田下総守「月ニ三引りやう」を筆頭に親類の同尾張守・同大蔵丞の「三ひきりやう」、ついで、同越前守・田中式部少輔・野沢隼人佐・別府治部少輔・別府中務少輔らが「同紋」とされ、以下、須賀土佐守「二かしらのともへ」、鳩井能登守「かたくろ」、本庄左衞門佐「団之うちニ本之字」、山田豊後守「かたはミ」、田山近江守「かたはみ」などが記され、成田氏の勢力の大きさがうかがわれる。


 一方、景虎の陣に加わった長泰に対して氏康は「成田下総守、年来の重恩を忘れ、度々北条の誓句血判の旨に背き、忽ち逆心を企つ事、誠に以って是非なく候」と厳しい批判の言葉を述べている。

 たしかに氏康にしてみれば、謙信に走った長泰の行為は「不忠」そのものであった。

 しかし、長泰にしてみれば、謙信が山内上杉憲政の跡を継いだ以上、古くからの山内上杉氏との関係からこれを支持するのもまた当然のことであった。

 しかし、長泰は小田原城攻撃のあと間もなく、謙信から離反し、ふたたび氏康のもとに走っている。


 『相州兵乱記』などによると、長泰の謙信に対する礼の作法が無礼であるとして謙信に扇で烏帽子を打ち落とされたのに腹を立て、謙信を離れ、後北条氏に味方するようになったのだという。

 事の真相はともかくとして、以後、成田氏が後北条氏に属するようになったのは事実である。

 かくして後北条氏の麾下に属した長泰は、永禄五年三月、謙信が下野佐野城を攻めた時、ただちに北条氏照へ通報し、氏照とともに佐野城救援の軍を出している。

 翌年、謙信が下野・上野・武蔵などの後北条氏方の諸氏を攻めたときにも、氏康・氏政方に立って謙信と戦った。


 しかし、永禄五年にいたって謙信の力の前に屈し、氏長の室に太田三楽の娘を迎えている。


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  戦国大名、成田氏長

 長泰は謙信に屈服するとともに第一線から退いたようで、以後、氏長の名が登場してくるようになる。

 しかし、長泰は嫡男の氏長よりも次男の泰親を愛していたようで、永禄九年、氏長をさしおいて、家督を泰親に譲ろうとしたことから、氏長との争いとなった。

 このとき、泰親が身を引いたため、成田氏は内訌に至らず氏長の家督相続ということになったのである。

 成田氏の家督を継いだ氏長の名は、すでに天文二十一年(1552)の妻沼聖天院棟札に登場しているが、その動きが活発化してくるのは永禄六年(1563)以降のことである。


 このころ、氏長は謙信方に属しており、同年、北条氏康が金山城攻めにとりかかると、謙信は由良氏支援のため成田氏長・太田資正を出陣させている。

 以後も、謙信方に立った氏長の動きが見られる。

 永禄八年二月、氏長は後北条氏の攻勢を越後の謙信に報じ、謙信は朝倉義景への対策を後回しにして、ただちに関東へ出陣する旨を氏長に報じている。

 ついで、永禄九年正月、謙信が常陸小田氏を攻めようとしたとき、氏長は二百騎の軍事行動を求められた。

 これは、関宿城の簗田氏の二倍であり、成田氏の勢力のほどを示している。


 しかし、氏康・氏政の攻勢が活発化すると、氏長の立場は微妙なものになり、永禄十二年の越相同盟のころには不安定ながらも後北条氏に属すようになっていた。

 それゆえに越相同盟における領土問題では、成田氏長の帰属が争点の一つになった。

 同盟成立によって成田領が上杉方に帰属することになると、謙信はさっそく成田氏の引付け工作を行っている。

 一方、後北条氏の方では、「成田氏や松山城の上田氏が謙信に退治されるのではないかと考えており、同盟が成立したからには後北条氏の攻撃を受けるかもしれないといって武田信玄へ通じる動きを見せている。

 信玄に内通させないためには、謙信が成田氏や上田氏に不可侵の約束をし、両氏から人質を取るしかない」などと上杉氏に申し送った。

 この巧みな後北条方の駆け引きによって、謙信は成田・松山領の獲得を断念した。

 これによって、成田氏長ははっきりと後北条方への帰属が決定し、以後、一貫して後北条方にたって活動することになる。


 越相同盟はその後に破れ、天正二年(1574)冬、羽生・関宿をめぐる謙信と後北条氏との決戦に際し、氏長は氏政・氏照兄弟の羽生城攻略の大きな戦力となって働き、謙信に忍城下まで焼き払われる損害を受けた。

 この天正二年の上杉・後北条の決戦は後北条方の勝利に終わり、上杉方の勢力は武蔵国から完全に消滅した。

 その結果、武蔵国は一時的ながら合戦の主要舞台から解放され、この状況のもとで氏長は領内支配の強化に努め家臣団編成や在地掌握に大きな成果を挙げることができたのである。


  小田原の陣

 天正期は、天下統一に向かって時代が大きく転回した。


 元亀三年(1572)上洛の軍を起こした武田信玄が、途中で病を発し軍を甲斐に帰す途中に死去し、信玄のあとを継いだ勝頼は、天正三年、織田・徳川連合軍と三河国長篠で戦って壊滅的敗北を喫し、武田氏の勢力は大きく後退した。


 ついで、天正六年三月、関東への陣ぶれをした謙信が急病を発しそのまま帰らぬ人となり、上杉氏は謙信後の家督をめぐって内乱となり、景勝が勝利したものの、勢力は大きく衰退せざるをえなかった。


 天正十年には織田軍が甲斐に侵攻し、敗れた勝頼は自害して武田氏は滅亡した。

 武田氏領を接収した信長は、織田家の部将たちにそれぞれ新領地を分け与えた。

 上野には、織田氏の関東管領として滝川一益が入り、厩橋城主となった。

 成田氏長も一益に款を通じたが、六月、京都本能寺において織田信長が殺害された。

 まさに目まぐるしいばかりの、時代の急変であった。

 一益は関東を捨てて上方に帰ろうとしたところを、後北条方の追撃を受けて神流川で戦い敗れ、ほうほうの体で関東を逃れ去った。

 ここにおいて、成田氏はふたたび後北条氏に帰属した。


 信長死後の中央政界では、羽柴(豊臣)秀吉が台頭し、四国・九州を平定すると、関東に目を向けるようになった。

 秀吉は後北条氏に上洛して豊臣氏の麾下に属するようにすすめたが後北条氏はこれに従わず、逆に領内の諸城を整備し、親後北条方の諸将に小田原への参陣を促した。

 ここに至って秀吉は小田原征伐を陣ぶれし、天正十八年春、京都を進発した。


 成田氏長と忍城を有名にしたのは、この小田原征伐においてであった。

 秀吉は本城である小田原城を包囲すると同時に、関東各地に散らばる後北条方の支城を各個撃破していく戦術をとった。

 忍城主の氏長は小田原本城に詰めたが、留守を守った一族・家臣は後北条方の城が次々と落城していくなかで豊臣勢の攻撃をよく防いだ。

 攻城軍の大将石田三成は秀吉の備中高松城攻めを真似て、水城である忍城を水攻めにしようとした。

 ところが、折からの雨によって三成の築いた堤防が決壊し、攻城軍には多くの死傷者が出るありさまとなった。

 石田三成はまことに武運に恵まれない武将であったといえよう。

 この失敗によって三成を戦下手とする世評が定着し、のちの関ヶ原の戦いにおける石田三成の失敗はこのときの敗戦が遠因になったとも考えられる。


 こうして、忍城は小田原城が開城するまで戦い抜き、七月の小田原開城後に氏長の使者が城兵に開城を命じたため、ついに開城となったのである。

 成田氏は武蔵国忍城主として、最盛期には総知行高六万貫(約三十万石)を領していたが、小田原落城後、城地は没収され氏長らの成田一族は蒲生氏郷に預けられた。


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 ところで、氏長は連歌に親しみ在京の連歌師紹巴に連歌の合点を請い、『源氏物語廿巻抄』を贈られている。

 また、和歌を冷泉明融に学び、古今伝授を受けるなど、かなり教養の深い武将でもあった。

 氏長の連歌の友に豊臣秀吉の右筆山中長俊がいた。

 天正十八年(1590)、小田原籠城中の氏長に長俊が再三開城を促す書状を送ったことは有名である。


  その後の成田氏

 氏長が預けられた蒲生氏郷は、小田原の役後、会津黒川城四十二万石を賜り若松城に入城した。

 成田氏長と弟泰親ら一族もこれに同行した。

 氏郷は若松城に入ると知行割を行い、成田氏長には若松城の要害の地である福井城に一万石の知行を添えて与えた。

 そして、氏郷は側近の家臣である浜田十郎兵衛・十左衛門の兄弟を目付として氏長に随臣させた。

 天正十九年、九戸政実の一揆が起こると氏長は城を浜田兄弟に預けて一揆鎮圧のために出陣していった。

 ところが、浜田兄弟は逆心を起こし、氏長の内室を殺害し福井城を占領してしまった。

 この報に接した氏長兄弟は兵を返して福井城を攻め、福井城を奪回した。

 このとき、氏長の娘甲斐姫は、女ながらも武装をして薙刀をとって敵陣に駆けこみ縦横に敵をなぎ倒し、母の仇浜田兄弟を討ちとり、武勇の誉をあげた。

 福井城騒乱は秀吉に言上され、秀吉は氏長父娘の武勇を賞し、また美貌の甲斐姫を側室として寵愛したことから、氏長は豊臣大名の一員となり烏山城二万石に封ぜられた。


 慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦には徳川方につき、那須一統とともに大田原を拠点として上杉景勝南下の防衛にあたった。

 戦後、家康は氏長に一万七千石の加増をもって報い、氏長は併せて三万七千石の大名になった。

 氏長には男子がなく家督は弟の泰親が継いだ。

 泰親は慶長十九年(1614)の大坂冬の陣、ついで元和元年(1615)の大坂夏の陣にも出陣し奮戦した。

 その後、泰親は家督を長男重長に譲り隠居した。

 しかし、重長は病身だったため、弟の康之が職務を代行していたが重長が病死したため康之が家を継ぐことになった。

 ところが、重長の室が懐妊中であったために、跡継ぎをめぐって騒動が起こり、それを理由に幕府は加増分の一万七千石を収公した。

 成田氏の家督を継いだ康之も元和八年(1622)に急死したため、弟の泰直が継ごうとした。

 ところが、成長していた重長の子房長を擁立しようとする者があってふたたび家督相続争いとなり、結局、これが命取りになり成田氏はふたたび没落の悲運となったのである。



 【参考資料:行田市史/戦国大名系譜人名事典 ほか】


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  ***補追***


 藤原氏説には先祖を藤原道長とする説と藤原基忠とする説の2つがある。

 道長説は『藩翰譜』に見え、道長の孫子・任隆が武蔵国幡羅郡へ下向し、その曾孫・助隆が成田を名乗ったとする[1]。ただし藩翰譜で道長の孫子に任隆はみえないと指摘される。

 基忠説は江戸時代に成田氏の末裔が作成した「成田氏系図」[2]にみえるもので、藤原行成の弟基忠を祖とする。

 基忠が武蔵守となり、武蔵国崎西郡に居住したのが始まりとされる。

基忠の子宗直が崎西郡司となり家忠・道宗と続き、助隆の時に成田郷に居住して地名を氏としたとされる。[3]


 一方、横山党説は『武蔵武士』(渡辺世祐・八代国治 共著)が提唱したもので、小野姓横山党の横山資孝の子・成任が成田を称したとあり、藤原姓としたのはこの系統の仮冒とする説である[4]。

 『埼玉県史』などは横山党など武蔵武士出身ではないかとする[5]。


 文献上で成田氏の活動がみられるのは『保元物語』で、源義朝方に成田太郎がみえる。

 『忍城主成田氏』では、「成田系図」で助隆(助高)の孫・広能が保元の乱で戦死したとするのを、この保元物語からの援用ではないかとする。

 鎌倉時代には成田氏は御家人になったとみられる。

 『吾妻鏡』では文治5年(1189年)7月、源頼朝の奥州藤原氏追討軍のなかに成田七郎助綱がみえる。

 古文書からこの時の恩賞で成田氏は鹿角郡に所領を得たとされる。

 承久の乱では宇治川の合戦で成田五郎と成田藤次が功を上げ、成田兵衛尉と五郎太郎が討死している。

 建保5年(1217年)には、北条泰時の家人で成田一族とみられる成田五郎が刃傷沙汰を起こしている。[3]

 建長2年(1250年)と建治元年(1275年)には、鎌倉幕府の内裏・寺社造営費の分担をした御家人の名簿に成田入道跡の名がある。


 「成田(氏)系図」によると、助隆・助広・助綱と続く。

 助綱の弟・助忠は源義経に従って功績を得ている。

 助綱の嫡子・資泰は承久の乱における宇治川合戦で戦死してしまい、嫡子・忠綱が幼少のため、助綱の弟・家助が助綱の養子となって忠綱の補佐を行ったという。

 鎌倉幕府滅亡とともに、成田助隆の子孫とみられる秀綱・家綱は所領を没収された。

 これにより鎌倉幕府御家人の成田一族は没落した。


 『鹿角市史』[要文献特定詳細情報]によれば、郎左衛門尉家綱は子息とみられる四郎太郎秀綱とともに鎌倉幕府滅亡の際、北条氏と命運を共にしたという。


 代わって成田氏を継承したのは武蔵七党の一つ丹党の安保氏である。

 安保氏は、安保実員の庶子・信員が成田家資(「成田系図」上での家助)の娘を娶(めと)って成田氏と姻戚関係になっており、信員の孫・行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承していた。

 行員の子・基員は成田氏を名乗り、基員からその子・泰員への継承時には成田氏本領である成田郷も所有している。

 このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の忍城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている[6]。

 泰員は白旗一揆に参加するなどしているが、応永2年(1395年)に播磨国須富荘北方[注釈 2]を祇園社へ寄進した記録以降、成田氏の活動は見えなくなる。

 成田氏の菩提寺たる龍淵寺の開祖とされるのが成田五郎家時で、中興の祖と伝わる。


 後世の軍記では家時の嫡男は早世し、次子で跡を継いだ資員は暗愚であったといい、資員の子・顕泰が幼くして継いだという。

 しかし家時や資員の名は後世史料にしかみえず、同時代史料では確認できない。


 室町時代後期(戦国時代)に山内上杉家の家臣として活躍した成田顕泰またはその子・成田親泰は、児玉氏、忍氏などを滅ぼすなど勢力を広げ、忍城を中心に成田氏の最盛期を演出した。

 しかし上杉顕定の死後の上杉家家督争いで上杉顕実に味方して敗れ、勢力を衰退させた。

 顕泰の孫の成田長泰は弱体化した山内上杉氏を見限り後北条氏、ついで上杉謙信に仕えたが、謙信の不興を買ったため再び後北条氏に寝返るなどめまぐるしい動きを見せた。

 長泰の子の成田氏長の代には小田原征伐で後北条氏に味方し、一時所領を失った(忍城の戦い)。

 だが氏長の娘甲斐姫が豊臣秀吉の側室として寵愛を受けるなどの幸運にも恵まれ、大名として返り咲き下野国烏山を領した。

 氏長の跡は弟の成田泰親が家督を継承し関ヶ原の戦いの後は徳川氏に属したが、その子の代に後継者争いが起きたため改易となった。

 子孫は御家人、次いで旗本となった。


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 なお、室町時代後期から戦国時代初期の成田氏に関しては近年の研究により、「成田系図」記載の生没年が同時代史料にみえる成田当主の名と合わないと指摘され、実名の比定が成田系図によっていた顕泰・親泰の頃の業績にずれがあるとする説が出されている。

 忍城築城主は、築城年代が忍周辺の領主が岩松氏から成田氏に代わった文明年間と考えられ、「成田系図」生没年から推測して顕泰の築城とされたが、

 同時代史料の「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」から文明11年(1479年)時点で忍城は存在したと指摘され、

 築城はその前になるため築城主は抄録にみえる顕泰の養父・正等とする説が提示された。

 没年に関しても、顕泰の没年は成田系図での没年・天文16年(1547年)ではなく、系図で親泰の没年とされる大永4年(1524年)で、その親泰の本来の没年は天文14年(1545年)とする説もある。


 2012年、『のぼうの城』公開に際して成田長親の子孫と、映画中での長親役・野村萬斎、石田三成役・上地雄輔が成田氏の菩提寺・大光院に集結し成田長親公四百回忌特別法要が執り行われた。

 基忠説は江戸時代に成田氏の末裔が作成した「成田氏系図」[2]にみえるもので、藤原行成の弟基忠を祖とする。

 基忠が武蔵守となり、武蔵国崎西郡に居住したのが始まりとされる。

 基忠の子宗直が崎西郡司となり家忠・道宗と続き、助隆の時に成田郷に居住して地名を氏としたとされる。


 室町時代後期(戦国時代)に山内上杉家の家臣として活躍した成田顕泰またはその子・成田親泰は、児玉氏、忍氏などを滅ぼすなど勢力を広げ、忍城を中心に成田氏の最盛期を演出した。

 しかし上杉顕定の死後の上杉家家督争いで上杉顕実に味方して敗れ、勢力を衰退させた。顕泰の孫の成田長泰は弱体化した山内上杉氏を見限り後北条氏、ついで上杉謙信に仕えたが、謙信の不興を買ったため再び後北条氏に寝返るなどめまぐるしい動きを見せた。


 忍城築城主は、築城年代が忍周辺の領主が岩松氏から成田氏に代わった文明年間と考えられ、「成田系図」生没年から推測して顕泰の築城とされたが、

 同時代史料の「文明明応年間関東禅林詩文等抄録」から文明11年(1479年)時点で忍城は存在したと指摘され、築城はその前になるため築城主は抄録にみえる顕泰の養父・正等とする説が提示された。


  深溝・東条松平家統治時代

 忍城は代々国人領主の成田氏の居城であった。


 上杉氏と後北条氏の係争地だったため、重要拠点として整備され、低湿地の沼沢を濠とし、その中に浮かんだ島を曲輪として利用した堅城になった。

 そして、成田氏は永禄12年(1569年)の越相同盟によって正式に後北条氏に属することになった。

 天正18年(1590年)の小田原征伐の際には石田三成率いる豊臣軍の攻撃を受けたが、落城することはなかった(小田原落城後に開城)。

 後北条氏滅亡後、関東に入った徳川家康は忍城に四男の松平忠吉を10万石で入れた。

 しかし忠吉は11歳という幼年であったため、松平家忠(松平深溝氏(まつだいらふこうずし))が1万石で入る。


 家忠は三成の水攻めのために荒廃した忍城と城下町を修築し、代官の伊奈忠次の助けも受けて領内に検地を実施した。

 文禄元年(1592年)に家忠は下総国上代1万石に移され、忠吉は忍に入ったがまだ若年のため、家老の小笠原吉次が実際の政務を代行した。

 吉次は兵農分離、家臣団編成、新田開発、利根川の治水工事で手腕を見せた。

 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、忠吉は井伊直政と共に島津義弘軍と戦って負傷しながらも武功を挙げたため、

 尾張尾張藩52万石に加増移封された。その後しばらく、忍藩は廃されて天領となり、代官の忠次や大河内久綱らが治めた。


  大河内松平家統治時代

 寛永10年(1633年)、『知恵伊豆』で有名な松平信綱(久綱の子)が3万石で入る。

 信綱は老中に昇進して島原の乱鎮圧では総大将として幕府軍を率いて乱を鎮圧し、寛永16年(1639年)にはその武功により武蔵川越藩6万石に加増移封された。


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  阿部氏統治時代

 代わって信綱と同じく徳川家光のもとで小姓から老中にまで栄進した阿部忠秋が5万石で入る。

 信綱・忠秋が相次いで老中に就任した結果、忍藩は「老中の藩」として政治的・軍事的にも幕府の重要拠点と見なされるようになったが、

 これが逆に藩主家の経費増加にもつながり、次第に忍藩の年貢は重くなっていったと言われている。

 忠秋は正保4年(1647年)に1万石、寛文3年(1663年)に2万石を加増され、合計8万石を領する大名となった。

 その後も阿部氏は正能(9万石)、正武(10万石)、正喬というように、歴代藩主が老中に就任している。

 特に正武は徳川綱吉の厚い信任を得て23年間も老中を務めて10万石に加増され、忍城の修築や家臣団の規律制定など、藩政の固めに尽力している。

 正喬の後は正允、正敏、正識、正由と継がれたが、これらの藩主も老中・京都所司代・大坂城代などの要職を歴任した。

 しかし藩政においては、寛保2年(1742年)に領内を襲った大洪水や天明3年(1783年)の浅間山噴火と天明の大飢饉、

 その3年後の大洪水などで大被害に遭う。加えて、歴代藩主が幕府の要職に就いたため出費が重なって、藩財政は大きく逼迫した。

 このような中で宝暦2年(1752年)と明和元年(1764年)に藩内で一揆が起こるなど、藩政は不安定化の一途をたどった。

 文政6年(1823年)、正権(正由の子)のとき、阿部氏は陸奥国白河藩へ移封となった。


  近世の成立ち

 江戸時代後期年間には 奥平松平家が、阿部氏に代わって

 歴史的に有名な 白河藩松平家を伊勢に移すための 三方領地換えにより伊勢国桑名藩より奥平松平忠堯が10万石で入る

 (なお、この際に桑名藩領の一部が忍藩領になっており、陣屋(大矢知陣屋)が置かれていた)。

 奥平松平家は元禄期に起こした騒動で知行を減らされていたにもかかわらず、石高に較べて家臣団が多くいたため、藩財政は早くから逼迫していた。

 このため、入部した翌年の文政7年(1824年)には藩内に重い御用金を課している。

 忍藩第3代藩主・忠国は所領10万石のうち5万石を上総・安房に移されたため、異国船の警備を任じられた。

 1853年(嘉永6年)、ペリー艦隊が来航して幕府に開国要求が迫り、 幕府は約8ヶ月の工期で品川砲台(現在のお台場)を完成させると、品川砲台のうち第三台場(現在、台場公園として整備されている)を忍藩に担当させている。

 ところが、これが原因でさらに財政は逼迫し、安政2年(1855年)の安政の大地震と安政6年(1859年)の大洪水で領内が大被害を受け、出費がさらに重なり、遂には家臣の俸禄を6分も減らさざるを得なくなった。

 この頃の奧平松平家の借金は、76万両という途方もないものであった。

 慶応3年(1867年)の大政奉還後、第4代藩主・忠誠は幕府と新政府のどちらに与するかを迷い、藩論もそれによって分裂する。

 翌年、戊辰戦争が起こると前藩主・忠国の登場もあって藩論は新政府側に与することで決し、忍藩は東北に出陣した。

 第5代藩主・忠敬は明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で忍藩は廃藩、代わって忍県が設置された。

 忍県設置3ヶ月後の明治4年(1871年)11月14日の第1次府県統合により埼玉県に統合された。


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  歴代藩主

  松平(深溝)家

 1万石。譜代。

 松平家忠(いえただ)<不詳>

  松平(東条)家

 10万石。親藩。

 松平忠吉(ただよし)<従三位。左近衛権中将。侍従>

  松平(大河内)家

 3万石。譜代。

 松平信綱(のぶつな)<従四位下。伊豆守>

  阿部家

 5万石→6万石→8万石→10万石。譜代。

 阿部忠秋(ただあき)<従四位下。豊後守。侍従>

 阿部正能(まさよし)<従四位下。播磨守>

 阿部正武(まさたけ)<従四位下。豊後守。侍従>

 阿部正喬(まさたか)<従四位下。豊後守。侍従>

 阿部正允(まさちか)<従四位下。豊後守。侍従>

 阿部正敏(まさとし)<従四位下。能登守>

 阿部正識(まさつね)<従五位下。豊後守>

 阿部正由(まさよし)<従四位下。豊後守。侍従>

 阿部正権(まさのり)<不詳>

  松平(奥平)家

 10万石。譜代。

 松平忠堯(ただたか)<従四位下。民部大輔>

 松平忠彦(たださと)<従四位下。式部大輔。侍従>

 松平忠国(ただくに)<従四位下。下総守。侍従。少将>

 松平忠誠(ただざね)<従四位下。下総守。侍従。少将>

 松平忠敬(ただのり)<従三位>